まだ「先生」と呼ばれるには青く、教えられることはなにもないと思っていたが、2年やってみて案外これで大丈夫なのかもしれないと思えるようになった。だって僕も毎日「これでいいのだろうか」と思いながら過ごしているのに、すべてを知っているような顔で前に出て喋るのは烏滸がましくて。しかしいつの間にか生徒の2倍の年月を生きようとしている。ほんの多少ではあるが、先に生きているだけの知識や言葉は出るのだろう。

いざ前に立ってみるとそれなりに先生っぽい振る舞いになってくる。自分からそうしているわけではなく環境がそうさせている感覚に近い。自分の意思にかかわらず、まわりに合わせるようにそのようになっていく。型に押し込められて形が変わっていく柔らかいクッキー生地のようだと思う。

生徒はとても素直で優秀。一を教えて百をやってくる。自分がやりたいことだけに邁進するのも必要だが、与えられたものをちゃんと自分ごととして捉えてクリアしていくのも大事だ。それができればどんな難儀なことも乗り越えられる。違う世界を知ってまた自分の世界にそれをフィードバックする。自分の中にある複数の世界を混ぜこぜにして表現に昇華させていくことは苦しくも楽しい。逆にいうと学校は課題を与える装置でもある。自分一人ではやろうと思わないことを課題として与えて外の世界に連れ出す。やってみると自分がそれを好きなのかそうでないのかを判断する材料になる。やってみてやっぱり合わないでもいい。そこでの自分の判断があるとその先の行動に説得力が生まれる。

春2か月のお勤め。「先生」という肩書は自分を構成する要素がまるでひとつ追加されたように感じる。肩書と言えどそれがもつ意味は大きい。なにかぼんやりとしている概念に名前を与えると一気に理解が進むように、名前や役割が与えられるとそこに客観性が生まれる。その客観性は自意識に大いに影響する。背筋が伸びるとでも言うだろうか。それが連なり日々の視点や振る舞いにも影響が生まれる。そこで自意識と客観に一貫性がないと精神的なバランスが崩れるが、おそらくぎりぎりではあるが、それは保てているようだ。1〜2年早かったらその釣り合わなさに苛まれていた。つまるところ、できることはできるし、できないことはできないようになっているのだろうと思う。だから何も考える必要はなくただ自分の心にきいてみるだけでよいのだ、という近年の発見がある。心がなにも言わなければそのまま進めの合図。所詮、小さな葛藤。

さて、今日5月21日から二十四節気が変わり「小満」。夏至まであと一ヶ月。町では農作物が植えられ、毎日ぐんぐん成長していくようすがみてとれる。日も長くなる。種を植え、自我をなくし余計なことをせず、環境を整え自然に身を任せるとよく育つのは、植物も人も同じかもしれないとぼんやり思う。