きっとわたしたちは感情の話がしたい。
4月9日、笠間稲荷神社の例大祭の記念講演としておこなわれた、作曲家である石田多朗さんの講演に足を運んだ。雅楽の作曲をされている石田さん。「音楽はなぜ生まれたのか?」という演題で、雅楽がどういう音楽なのかということを2時間かけて教えていただいた。
ここに書いたのはその感想文となるようなものだ。少し長くなってしまったが、雅楽の世界から受けたイメージをつらつらと書いてみる。
雅楽をちゃんと聞いたのは昨年の笠間稲荷神社でおこなわれた石田さんのライブだった。「雅楽」と聞くとちょっと敷居が高い感じがしていたのだが、それは神社のイメージと近い。どこか高貴で深遠。どこにでもあるけれど、やわな気持ちで踏み入れてしまってはいけない感じ。それに紐づくようにして雅楽にも少しの近づきがたさを感じていた。
でも、石田さんの語りぶりは軽快で気さくで情熱的。作曲家の人となりと雅楽の音楽性には関連はないのだろうけど、石田さんのお話しは雅楽に対する敷居の高いイメージを和らげてくれたし、なによりも「雅楽めっちゃおもしろいでしょ!」という気持ちがすごく伝わってきた。だから時間が経つのが早かったし、もっと聞いていたかったと思う。
おそらくじっさいにはよく知らなかったということが近づきがたさを強化していただろう。知らないことに対してちょっと怖くなるというのは初対面同士のコミュニケーションなどにも起こることだが、知ってしまえば親しみやすくなるのもまた然り。雅楽というものを少しだけ知って「足を踏み入れてみようかな」という気持ちになれた。「きっと特定のルートを通じてしか買えないのだろうな…」と思っていた雅楽の楽器がAmazonで買えるということも教えてくれて、けっこう気軽にできそうな感じで驚いた。(5,000円くらいでも龍笛と篳篥がいいクオリティのようです!)
では、雅楽とはどういう音楽なのか。おもしろいと思ったポイントを挙げてみる。簡潔に述べさせていただくため細かな誤解を与えるかもしれないが、個人的なメモとしてみていただきたい。
- 西洋はものごとを分割して整理して考える。音にも音階があり、楽器も弾きやすいように作られている。雅楽はそれほど整理されておらず、楽器のかたちに合理性もない(=人間中心ではない/不協和音を受け入れる)
- 雅楽は、森の中で鳥の声や葉の擦れる音がそれぞれのリズムで鳴っているように、楽器それぞれが自律的である
- 雅楽で使われる管楽器(龍笛、篳篥、笙)や絃楽器(琵琶、箏)の物理的なかたちがそれぞれX・Y・Z軸方向、あるいは上下・左右方向に広がっている
クラシック音楽やわたしたちが日常的に耳にする大衆音楽とは趣がだいぶ異なる。まず、自然を表現する音楽であるというところがよい。森の中ではさまざまな鳥や動物、風などがそれぞれのリズムに合わせることなく、それぞれが自由に音を出している。音色についても、「聞きたくない音」というのは特に自然界にはないように思うし、合わせたわけではなかろうにどのような音色の組み合わせもきれいに聞こえる。雅楽もそのようだと言う。雅楽を聴いてみると、たしかにどのタイミングでどの音が鳴るのか予想がつかず、ドラムが一定のリズムを刻むように同じリズムの拍がない。いつどの楽器が音を出しても不調ではなく、ひとつひとつの鼓動や息吹が森の中に隠れるのと同じようにその境界はまだらになっている。
石田さんの著書「アニミスティック・ミュージック」にもわかりやすく書かれている。
雅楽では、拍の感覚が西洋音楽のようにはっきりしていません。楽器同士が「せーの」で一斉にぴったり揃うことはなく、少しずつタイミングをずらしながら音を重ねていきます。これはまさに、森の中で葉が揺れ、鳥が鳴き、虫たちがそれぞれ声を重ねている、あの音の生態系にとても近いものです。自然の中で、あらゆるものが同時に、同じリズムで鳴り出すことはほとんどありません。
— 石田多朗『アニミスティック・ミュージック』p.13
つまり雅楽は人間が中心ではないのだ。人間が世界を解釈・説明するために言葉や科学は発達してきたし、いまわたしたちはそのように積み上げられたシステムの中で生きている。でも雅楽にとって人間は主語ではなく、世界のあるがままに寄り添うシステムがつくられていて非合理性を厭わない。ついつい合理性をもとめてしまうクセがついているわれわれにとって異世界のような音楽なのだ。
それもそう、死後の世界/神域にアクセスするための音楽が雅楽だそうだ。だから人間が操作しやすく整理された方法で表現されるのではなく、「万物に霊魂が宿る」というアニミズム的な方法で表現される。調和しているのだけど調和をめざさない。演奏者をどのように切り分けても音楽が成立する。風の音がすこし混じる。楽器の形がさまざまな方向に伸びている。雅楽を表現するのにほんとうに言葉が拙くて申し訳ないが、同じリズムでひとつの調和に向かってつくられる音楽ではなくそれぞれが独立可能な、それでありつつもどのように分割しても生存可能な、たとえればすべての存在と瞬時に同時に鳴るような超越的な音楽。
(軽々しくむずかしい単語を使ってしまうのだが… 講演のあいだ、鬼滅の刃の無限城やストレンジャーシングスのマインドフレイヤーのような、全意識を瞬時に掌握したり見えない力で意識をコントロールする科学では計りえない世界のイメージが頭の中を駆け巡っていた。似ているだろうか)
この感覚はむかしから日本など東洋に住む人たちがもっていた感覚なのだろう。雅楽の音楽形式は発祥した頃から大きくは変わっていないという。つまり、自然と一体化するような音楽であるとか、なぜそのようなシステムになっているのかということを紐解いていくと、昔の人々の感覚にアクセスが可能になる。もちろんそれが正解であるとかはわからないのだけど、雅楽はそういった「時間を超えたメディア性」をもっているのだと感じた。音楽というのは一種の表現形式で、音楽自体にかたちがないということでは言葉とも絵とも異なるが、雅楽は1300年前からその形態が大きく変わらず、いまでもその演奏を聴くことができるのがすごい。昨年、演奏も聞かせていただいたが、継承という形式が保存にもっとも適しているのではないかと思うほどに眼前でおこなわれる雅楽の演奏の音は明瞭で、音という意味ではそっくりそのまま昔から今にダイレクトに届いたといっても過言ではないだろう。
石田さんは折口信夫を引用して「たま」の話をしてくださった。「たま」は霧のような漂う存在で、古事記にでてくるいろいろな神様の前身となる存在としては神様でもあり、死者の魂でもあり、霊魂でもある。「霧のようにそのあたりに漂っている神様や霊魂」というような存在だろうか。分子としても量子としても数えられない、計測不可能な宇宙を漂うダークマターのようにも思える。そもそも音楽というものは、計測不可能な領域と現世をつなぐことができる不思議な芸術様式であるのかもしれない。雅楽がまさにそのような音楽で、わたしたちと霊界/わたしたちと神様/わたしたちと古代の人々など、さまざまな時空間をつなぐ架け橋として存在しているようにも思えた。
さて、前段が長すぎた。わたしたちは感情の話がしたいのである。
いろいろな物事を説明するために言葉が生まれ、わたしたちはその言葉によってコミュニケーションをとっている。物事を分けて分けて分けて説明可能な単位に分解する。もともと自由であるはずの言葉の中にも説明のなかにも、論理がもとめられ息苦しい。そんな経験があるかと思う。
論理は直線的だ。一般性をもたせるために事実とか客観性を積み上げてつくっていく。そこでは主観は省かれる。主観は再現性のないものであり一般的ではないからだ。「わたしはいまオムライスが食べたい」という個人的な感情は決して論文には書かれない。
でも、雅楽はそのようなかたちをしていなかった。「わたしはいまオムライスが食べたい」ということも受け入れてくれるし、「わたしはいまオムライスが食べたい」と「そうではなくてわたしはいまチーズフォンデュが食べたい」という意見の対立も受け入れてくれる。森の中のあちこちで各自のペースで鳥や生き物が音を発するように、それぞれがそれぞれの在り方で在ることでひとつの世界をつくるという方向。
日頃『ここで◯◯と感じるのが「正解」なのかな…』と、感情を強要されているような気配を感じることがある。そもそも誰もそんなことはもとめていなくて、自分の中にそのように思ってしまう心のクセみたいなものがあるだけなのだが、教育されてきた過程だったりいま置かれている環境だったりがそうさせているのか?と思うことがある。「あなたはいまカレーライスが食べたいでしょう」と言わせたいがためにじゃがいもとにんじんと玉ねぎを見せられているような。
人の感情に正解も不正解もないのは明らかなのに、同じ感想を強要されているような感覚はどこからくるのか。誰がいつどこで感じたこともすべて正解なのに。考えるにそれはきっと論理を優先させ続けてきてしまったからだろうと思う。あるいは、管理されてきてしまった。人間が管理しやすいように社会や環境がつくられているせいで、集団を統制しやすくするために同じ感情をもたせるように仕向けられてきたせいで、人間の感情が同じ方向を向くきらいがある。そしてそれに誰もが気づいているはずなのに、止める術が見つからない。そんなことを感じるのだ。
感情の話が蔑ろにしていないだろうか、ということを自分に問うている。美味しいものを食べて感想を言うとか、風が流れて気持ちがいいことを伝えるとか、ほんとうはそういった感覚の話だけでもいいのではないだろうか。このところ流通する言葉をみると、実用的なその方法論ばかりが優先されてしまっている気がしている。でもつなぐべきは、雅楽がそうであるように、今を生きる人々の感覚や感情なのではないだろうか。
そう考えると、まさに雅楽の存在が希望にみえてくるのだ。アニミズムの世界を雅楽という音楽芸術が体現していることを知ったいま、アニミズム的な在り方をそれぞれの方法でどのように表現することができるだろうかと考えている。それは映画でもいいしアニメでも小説でもいいかもしれない。何かしらの芸術表現でわたしたちと世界がつながることができれば、直線的に流れる社会に風穴を開けることができると思う。
こちらも石田さんの「アニミスティック・ミュージック」からの引用。
ひとりひとりが孤立して、完全な個人として閉じてしまうのではなく、「不完全であること」を前提にしながら、全体の中で響き合っていくこと。そんな社会であってほしいと、いまは願うようになりました
— 石田多朗『アニミスティック・ミュージック』 p.27
不完全であることを受け入れるのは相当にむずかしい。だって不完全であることで突っ込まれる時代だから。論理的に説明がつかないと正しくないから。でも、今も残るひとつの芸術表現である雅楽が「そうではないのかもしれない」と思わせてくれることが希望なのです。
石田さんの活動を通じて感銘を受けている人間がここにひとりいます。ご講演ありがとうございました。