お庭屋さんに家の庭をみていただいた。庭にはたくさんの種類の庭木が植えられている。そのさまをみてぼくは「わるくない庭なのではないかな」と思っていたのだが、庭師さんは「昭和の適当な庭師はこんなふうにしちゃう」「この木はお金儲けのために植えられたんだ」等、奇譚なく仰った。

庭にも庭師の思想が反映される。寺社のハッとするような庭や、同じように手入れがされ風景がずっと動かない庭。あるいは、さまざまな動物が訪れて種を持ち込み、どのように動いていくのか想定ができない庭。他者を受け付けるか受け付けないかということでもあるかもしれない。どのような庭にするかはその庭をつくる人の思想が反映される。

そう考えたとき、ぼくはこの庭を「一秒先の風景が読めない庭」にしたいと思った。庭を眺めていると虫や鳥が飛んでくるのはいつだって突然で、唐突もなくドラマがはじまる。鳩が二羽で横切ったり、トカゲがカサカサ動いたり。いつはじまるかわからないという点で「一秒先が読めない」。あらかじめ動きや風景を固定化するようなことではなく、いろいろな要素を呼び込むための仕掛けがありそれによって風景がつくられるような、見ていて飽きない庭がいい。単に、動的なものには生命を感じるのだ。

それを具体的にどのようにつくるのかはわからないが、ひとつの方法として動物の安息地となってほしいと思う。特に鳥が立ち寄れば種を持ち込んでくれるし、まだ鬱蒼としている庭の一角にはそうして育ったネムノキが大きく育っている。

自然と家の交わる場所としてその棲み分けも大切だがそれを考えつづけるのも一興だろう。鳥については水場をつくり、実が生る木を植えると立ち寄りやすくなるという。小さい鳥を集めたいのなら小さめの水場がよく、いつもきれいな水があるようにしておくと鳥たちも覚えてくれる。

日々の連綿とその作業、それがつくる風景はどのようなものになるのだろうか。